「イルカぁ?」
雅也が語尾を延ばし、だらしなくそう言った。
俺は目の前でゆらゆらと泳いでいる"群青色の何か"・・・正しくはイルカの背びれを見ながらこくり、と頷いた。
「こんな岸近くまで来るモンなのかよ?」
「知らねーよンな事。っつーか、それ言ったら逆に鮫がわざわざこっち来るのも不自然だろ?」
「・・・・確かに」
問題は何故イルカがこんな近くまで警戒もせずにやってきたか、ということだ。
というか良く今まで見つからなかったな。
見つかった日には、マスコミなんかに追いかけられて大変だったろうに。
まぁそれはさておき。
「近づいても大丈夫か、確かめてくるよ」
俺は靴を脱ぎ、Tシャツに手を掛けた。
何だか今は自信があった。
彼には気持ちが通じる・・・そんな気がした。
理由なんて無い、ただの確信だ。
肯定する理由はないが、それを否定する理由も無い。
「危なくないか?」
「噛まれたらどーすんだ?」
「いざとなったら逃げるさ。あと、雅也・・・イルカは多分噛まないぞ。っつーかお前は根本的なトコが間違ってる」
こんなこともあろうかと(予想はしていなかったが)中に海パンを着ていて良かった。
第一、こんなトコで素っ裸になるのも考え物だが・・・。
俺は日光で暖められ、熱くなった砂の上を歩き、そっと水に足を浸した。
ひんやりとした心地よい感触に思わず目を瞑る。
その時、少し沖の方で泳いでいたイルカが早く来い、と言わんばかりに甲高い声を上げた。
「ったく、わかってるよ」
ぽつりと呟き、どんどん歩みを進めていく。
海水に肩の下くらいまで浸かった時、イルカがゆっくりと近付いて来た。
ごくり、と後ろで唾を飲む音が聞こえる。
そっと手を伸ばす。
キュウ・・・そう小さく鳴いて、イルカは俺の手に少し口先で触れたかと思うと次に頭を擦りつけた。
俺は思わずふぅと安堵の息を零す。
その時・・・。
『待っていたぞ』
「ッ?!」
突然すぐ近くで声が聞こえ、俺は思わず後ろに倒れそうになってしまった。
水の中にダイブしそうになったが、何とか持ちこたえ、目の前で尚も俺の手に頭をこすり付けているイルカを見据える。
今の声は、コイツ・・・か?
『阿呆面をするでない・・・我は此処だ』
また声が聞こえた。
セドナや暁鴉のものではない。
勿論、雅也と和樹のものでもない・・・。
「お前・・・喋れる、のか?」
『我が喋れる訳では無い。お主に我の声が聞こえておるのだ』
イルカは口こそ動かしていなかったが、その丸い二つの目は明らかに俺を見つめており、この声は彼のものだと理解するのにそう時間は掛からなかった。
俺は改めてイルカを見つめる。
「とにかくお前は、こっちに危害を加えるわけじゃないんだな?」
『生まれてこの方人間に危害を加えた記憶などないわ』
「おし、わかった」
こくりと頷き、俺はまだ砂の上でこちらを心配そうに見ている4人(2人と2匹)に手を振り、にこりと笑って見せた。
目で大丈夫だよ、と合図しながら。
『・・・いい笑顔ぞ』
「は?何か言ったか?」
『いや、何でもない』
――――――――――――
「まっさかこんな間近でイルカ見れるとは思わなかったなー」
「だな。俺もまだ信じられねぇよ」
「はは・・・」
嬉しそうにイルカを見つめる雅也と和樹に、俺は苦笑いしか浮かべられない。
今までセドナと暁鴉に出会った時の出来事に比べれば、今回のはまだ平和な方だし・・・。
3回目であるというのも手助けしていて、こんな風な非日常にはとっくの昔に慣れてしまっていた。
何だかそれも怖いけど。
―――どんどん自分が普通じゃなくなっていく・・・
何だか悲しくなり、俺はその場に沈みたくなった。
いや、まだ死にたくは無いけど。
「けどコイツ・・・ぜってぇ触らせてくれねーのな」
雅也が少し不満そうに零した。
先ほどから見ていたが、イルカは雅也や和樹に自分から少しずつ近付くものの一定距離・・・手が届く距離まで近付くとスッと逃げていってしまう。
そして何故か俺の後ろに隠れるので俺からすれば気まずくて仕方ない。
そんなことが何度か繰り返されていた。
その度に彼は『気安く触るでない!』とか『身の程を知れ!』とか文句を言っているので、聞いているこっちとしては・・・何だか息苦しい。
「うー・・・しまいにゃ追っかけるぞ、畜生!」
「イルカについて行ける訳ねーだろー」
はははっと笑いあう。
和樹も嬉しそうに笑っている。
その時、砂の熱さに耐えかねたセドナが俺の鞄の上に乗り、更にそこから俺に視線を送っているのに気付いた。
『説明して下さい』
彼の目はそう物語っていた。
しかしそれが難しいのが今の現状。
そもそも雅也と和樹が近くにいる以上、彼らとの会話は出来ない。
アイコンタクトでは無理があるしテレパシーが使えるわけでもないし・・・。
『では我が説明してやるとしよう』
そう言ったのはイルカだった。
彼は身体が砂についてしまうギリギリ岸まで行き、セドナと暁鴉に近くに来るよう促した。
暁鴉は翼をせわしなく動かし、何とか近くまでいけたようだが、問題はセドナだ。
いやいやするように首を横に振り、『熱すぎて肉球が死にます!』と必死に訴えている。
「全く・・・」
水を掛け合って遊んでいた雅也と和樹(ちょっと男同士では見苦しい光景だった)にごめんと謝り、岸に上がる。
俺の鞄の上で情けなく小さくなっているセドナを抱きかかえ、水際まで近付くと海水に少し足が浸るところで彼を降ろした。
急で驚いたのかセドナは小さく『ひえっ?!』と悲鳴を上げるが、熱い砂浜に戻ることは無く、何とかその場で一息吐いた。
『ふん。主に抱えられなければならぬとは・・・つくづく世話の焼ける猫よ』
『なっ・・・笑わないで下さい!アナタはずっと水の中だからいいでしょうけど・・・岸に上がってきて下さい!干乾びますから!』
その反論は少し可笑しい気がするが。
なんとなく微笑ましいので黙っておくとする。
「んじゃ俺はとりあえず戻るからな」
『お主にも聞こえるよう、なるべく声を張り上げて説明するとしよう』
「おう、サンキュ」
バシャバシャと水を掻き分け、まだ水を掛け合っている雅也と和樹に近付く。
しかし次の瞬間、何だか彼らの背景に少女マンガさながらのキラキラしたモノが見えて、一瞬立ち止まってしまった。
―――これは結構・・・キツい、ぞ
後ろではイルカがセドナと暁鴉に説明をしている声が聞こえた。
『簡単に言えば我も貴様等と同じよ。宿主を探し出し、その主に力を分け与え、共存する・・・いわば厳選された存在』
『でもアナタはどうやって岸に上がってくるんですか?』
『ふん、我を舐めるでない。人間化すれば良かろう』
『人間化・・・?』
人間化?
これまた聞いたことの無い単語が飛び出してきた。
ともかく直訳すれば・・・イルカは人間になることが出来るということ。
少し気になって後ろを向くと、セドナは真剣に話しを聞いているが隣に居る暁鴉はチンプンカンプンのようで最早聞く気は無いらしく、大欠伸を零したりしている。
『貴様!真面目に聞いておるのか!』
『聞いてねーよ。ンな長くて難しい話、眠くなるに決まってんだろー』
『何だと?!』
もう口論に達してしまったようだ。
しかし何度も彼らの元に戻るのも雅也と和樹に申し訳ない・・・そう考えていた矢先。
「真希!」名前を呼ばれ、振り返る。
バシャッ
「はぅわっ?!」
顔面に冷たい海水がぶつかった。
急だったため抵抗すら出来ず、おまけに海水が口に入ってしまったようでしょっぱい。
幸い目には入らなかったようだ。
顔についた水滴を手で払い除けて瞑っていた目を開けると、目の前で雅也と和樹がしてやったり、といった風な顔でにんまりと笑っていた。
「この野郎共ーッ!!」
俺は両腕を、ぐるんぐるんと豪快にまわし、二人に向けて水を巻き上げた。
案の定二人には大量の海水が降り注ぐ。
「てンめ!」
「やったなー!」
「っちょ、待て!一対二はズルいぞ!」
その後、足を掬われて顔面から沈んだり、雅也に蹴りを入れて沈ませたり、和樹に物凄い力で吹っ飛ばされたり。
一生懸命、暁鴉にもわかるように頭を働かせて説明していたイルカの声など耳に届くことは無く、俺は友人二人とじゃれあうことに夢中になっていた。
―――――――――――
『主!お主まで我の話を聞いておらぬとな?!』
「いやぁゴメンゴメン。あの二人と遊ぶの久しぶりだったからさ・・・つい」
『つい、などと気の抜けたことを言っておる場合か!第一、そこの黒いのも理解するどころか聞く気すら無かったなど・・・!』
ふるふると怒りに震えるイルカ(体は震えているかどうかはわからないが、声が震えていた)に俺はもう一度ゴメンと謝る。
今、雅也と和樹は居ない。
岩陰の向こう――少し奥まで探検に出かけている。
流石にセドナや暁鴉を連れて歩くとお荷物になるので、俺はここで待っていることにした。
『全く・・・だが主のためぞ。もう一度説明するとしよう』
「おう、サンキュ」
『良いか?3度目は無いぞ』
こくり、と小さく俺が頷く。
それを見たイルカはふぅ、と小さくため息を零すと一度だけ大きく息を吸い、話し出した。
『まず我々は――』
「あ、そうだ」
『〜〜ッ!主!!』
「え?あ、ごめん」
説明を始めた彼の言葉を遮ってしまった様で、怒られた。
だが彼の反応を見ていると楽しい。
イジり甲斐があるヤツだ。
「いやぁ、名前付けようと思ってさ?」
『・・・・名前・・・とな?』
イルカは怒るのを止め、真ん丸い目を少しだけ大きくさせて俺の言葉を繰り返した。
そんな彼に俺はこくりと大きく頷いてみせる。
「そ。名前。コイツはセドナ、コイツは暁鴉・・・どっちも俺がつけてあげた名前だ」
セドナの名を呼びながら彼の背を撫で、今度は暁鴉の名前を呼びながら黒光りする翼を撫でる。
するとイルカはふむ、と考え込むような仕草をみせた。
セドナと暁鴉を順に見て、俺に視線を戻すと、
『確かに、お主等二人だけ名前があるというのも気に障る・・・』
『ンだとテメーコラ』
『主・・・我にも名をくれぬか』
暁鴉が抗議の声を上げるが、それすらも無視してイルカは俺をじっと見つめた。
「うん、いいよ」
『おい真希!テメェも無視か?!』
「そーだなぁ・・・」
『こらぁああぁああぁあぁ!』
うるさいなぁ、と呟く。
すると暁鴉は余程のダメージを受けたのかガガーン!という風な表情を浮かべ、端っこに座り込んでしまった。
流石にこれには罪悪感が湧き上がってくる。
急いで彼に駆け寄ると、小さくなった背を撫でた。
「ごめん、暁鴉・・・冗談だよ」
『ぐすん・・・お前なんて、お前なんてぇ・・・!』
暁鴉ってこんなキャラだったっけ。
ともかく目を潤ませてこちらを一生懸命睨みつけてくる暁鴉は、"可愛い"の一言に限る。
あやして慰めて祈願して抱き締めて――ようやく彼は機嫌を直してくれた。
『次は・・・許さない、からな』
「はいはい」
気を取り直して泣き止みはしたもののまだ目が潤んだままの暁鴉を肩に乗せ、セドナとイルカの元まで戻る。
『あ、やっと泣き止んだんですね』
『世話の掛かる奴だ』
『うるせー』
暁鴉は憎まれ口を叩く二人(匹?)をあしらい、俺の頬にそっと顔を摺り寄せてきた。
・・・・・おいおい、可愛すぎンだろ、コイツ
『して、主・・・我の名はどうなった?』
「あぁ・・・ちゃんと考えてるよ」
『ふむ。まあすぐにポンと出されても面白みがないしな』
数分の沈黙。
まだ日差しが強いにも関わらず、暁鴉は飽きることなく俺に擦り寄る。
暑さのせいか、いつもより頭の回転が遅い。
俺は暑さを誤魔化すために海水に足を浸した。
――冷たくて、気持ち良い
「・・・あ、」
『ほう?何か考え付いたようだな』
イルカの声に、俺はにこりと笑ってみせる。
そして今生み出したばかりの名前を口にするため、口を開く。
「縹、は・・・どうだ?」
小さい頃から好きだった色。
正しくは・・・母さんが、好きだった色。
海のように青くて、優しくて包み込んでくれるような色だ、と母は言っていた。
俺もきちんとした色を見たわけではないが、きっと"縹色"ってのは彼が持つ綺麗な身体と同じ色だろう。
『ふっ・・・心地のいい名だな。感謝しよう』
イルカ――もとい縹は名前を気に入ってくれたらしく、ふわりと微笑む。
思わず俺も釣られて微笑んだ。
我が家に新しいペットが、加わりました。
『ペットでは無い』
「あ、ごめん」