「はぁ・・・・」
俺は朝食である食いかけのトーストを持ちながら、ため息を零した。
今朝だってまともに寝られなかったし。
というか、ここ最近はどうも落ち着かない。
それもこれも、理由はただ一つ。
雅也の兄――羅衣から連絡が入ってから一週間が経過しているからだ。
だが一週間経っても、彼が会いにくる傾向や前兆は一切見られない。
寧ろ、本当は来ないんじゃないかと不安に思わせる程だ。
『マスター・・・?』
『腹減ってねぇなら、それ、オレにくれよ!』
「いいよー、ほい」
『やったぜ!』
『こら、暁鴉!・・・マスター、ダメですよ、ちゃんと食べなきゃ』
俺からトーストを貰って嬉しそうにかぶり付く暁鴉を見つつ、そんな暁鴉を叱るセドナを宥める。
その時、リビングのドアが遠慮がちに開き、縹が目をごしごしと擦りながら姿を現した。
良く見てみると、彼は長い髪が若干あちこちに跳ね、毛先がまるでカールを掛けたかのようにくるんとなっている。
だがそれよりも気になったのは、
「おはよう。着物、乱れてるよ」
『ぬ・・・これは失礼した』
彼の着ている着物がぐちゃぐちゃに乱れていた。
帯なんてもうそれ付けてないも同然だろ、とか思いつつ、にこりと微笑む。
『おはよう、主』
「ん。そうだ・・・お茶飲む?」
こくりと頷いた縹に、俺は椅子から立ち上がって台所まで歩く。
さっき沸かしたお湯・・・冷めてないかな・・・。
温め直した方がいいだろうか。
そんなことを考えつつヤカンを火に掛け、沸騰するのを待つ。
追い焚きなのでそんなに時間は掛からないだろう。
そういえば、と俺はここ最近――というか一週間の生活を思い返す。
なんだか最近は怪物が現れることが少ない。
最後に戦った日から一週間も経つというのにまだ2匹しか相手をしていないし、更にその2匹は思ったより弱かったし・・・。
ついでにいうと二匹のうち、雅也と和樹を守った時に戦った時の怪物も換算している。
結局はあれ以降1回しか現れていないのだ。
それも3日か4日ほど現れていない。
だがまだセドナ達とは会話できるから、全部倒したとは到底思えないし。
ラスボスがあんなに弱いのもどうかと・・・。
そもそもなんで"異空間"にはあんな生き物が現れるのだろうか?
そしてその怪物退治に俺が選ばれた理由は?
改めて見つめなおしてみるとやはりわからない点が多すぎる。
やっぱり、羅衣に早く会いたい。
きっと彼なら教えてくれる・・・と思う。
これと言った根拠はないが。
そんな風に、考え事をしていたのが悪かったのだろうか。
何をするでもなく宙を彷徨っていた俺の手は、運悪くヤカンにぶつかってしまった。
「ッつぅ・・・!」
火に掛けられたヤカンはかなりの熱を持っていて、それに触れてしまった俺の右手は真っ赤になり、じわじわと鈍い痛みが走る。
すぐに水で冷やせばいいだけのはずなのに、俺は動けずにいた。
誰かに見られている――そんな感覚に囚われたから。
ねっとりと絡みつくような視線。
気持ちが悪い。
思わず冷や汗が背中を伝う。
ガシャン。
そんな音が鳴った。
『主?・・・・主!』
それと同時に縹の声がして、次いで何かに包み込まれるような感覚。
そしてガシャンという音がもう一度聞こえたと思ったら今度は水が撒き散らされる音。
何?何があった?
どうなってる?
何も、何も・・・見えない、?
『真希ッ!』
「っ?!」
縹の声で遠のきかけた意識が戻ってきた。
背中にはフローリングの感触、目の前には縹の顔・・・・。
「は、なだ・・・?」
手を引かれて、身体を起こされる。
立ち上がれないままぺたんと床に座り込んで俺は辺りを見渡した。
床にはフタの開いたヤカンが転がっていて、その周りには水が撒き散らされてあった。
『主、どうなされた?』
「いや・・・何があったのかさっぱり・・・」
『主が台所で突然動きを止めたから少々不安になり、様子を見にきたら、ヤカンが落ちかけていて・・・それなのにお主は避ける気配どころか微動だにしなかったのだぞ?』
おかげで肝を冷やした。
縹は溜息交じりにそう呟く。
そんな彼と心配そうな顔で駆け寄ってきたセドナと暁鴉にごめん、と謝った。
『我があと一歩遅かったら・・・どうなっていたか』
「だからごめんってば。今度はちゃんと気をつけるからさ」
その時、ふと視線を感じて顔を上げた俺は思わず悲鳴を上げそうになってしまった。
タンスの陰から、赤ん坊がじっとこちらを見ていた――ように思えたのだ。
しかし一度目を擦ってもう一度同じ場所に目を向けると、もうそこに赤ん坊の姿は無かった。
「気持ち悪っ・・・」
『えっ』
『吐くのか?』
「ちゃうわ」
思わずぽつりと呟いた言葉に、セドナが反応し、暁鴉がそういいながらレジ袋を取りにいこうとしたのを止め、大丈夫だから、と告げる。
さっきのは忘れよう。
昔見た映画か何かのフラッシュバックだろう。
・・・・ホラー映画なんて見た覚えないけど。
その時。
ドクッ・・・どくん、
「っ?!・・・ぐ、あ・・・!」
『マスター?!』
久々の感覚。
だが今回のは今まで以上に刺激が強く、俺は胸元の服を押さえて、その場に蹲ってしまった。
「っう・・・っく、・・・!」
動けない・・・・っ!
どうしようか。
このままでは異世界へ行く事ができない。
―――・・・・―・
その時、脳内に誰のものかわからない声が響いた。
だが、何と言っているかわからない。
―――真希・・・
いや・・・わかる。
あれは、あの声は・・・。
―――真希!
途端、心臓が脈打つような感覚は消え去り、それから俺は何かに操られるように物置に置いてある鏡へと向かった。
その後ろをセドナ、暁鴉、そして縹が心配そうな表情で着いてくる。
それから俺は迷わず異空間へと身を投げた。
少し高いところから、カツッと靴を鳴らして異空間に降り立つ。
そんな俺の前に現れたのは巨大な蜘蛛のような生き物。
既に街は支配されており、そこかしこに巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされてあった。
「趣味の悪いアートだな」
俺は思わず呟く。
すると巨大蜘蛛はぎょろりと目玉を動かし、こちらを睨み付けてきた。
『今何と言った?小僧』
「ッ?!」
予想外の出来事に俺は思わず後ずさる。
「おいおい・・・マジかよ」
まさか喋れるなんて。
だがセドナや暁鴉、縹が喋れるのだから、巨大蜘蛛が喋っても不思議ではない。
『小僧・・・貴様、旨いのか?』
巨大蜘蛛が小首を傾げながら言った。
「さぁ?喰ったことねぇからわかんねぇや」
『ではワタシが調べてやろう』
「遠慮しとくよ・・・自分の味は、俺が一番わかってるから、さ」
その時、巨大蜘蛛がモゾモゾと身体を少し動かし、次にその巨大な身体から直径2〜3センチほどの白い糸が吐き出された。
糸は俺の横を通り過ぎ、俺の後ろに居たセドナ達を捕らえた。
『っ・・・マスター!』
『ンだよ、これ・・・っ』
『不覚・・・!』
不意を突かれた俺はどうすることもできなかった。
こうなってしまったら俺はもうただの"小僧"だ。
彼らを助けることなどできるはずがない。
「テメェ・・・汚ぇぞ!」
『これはスポーツではないのだぞ?卑怯も汚いもなかろう』
「っく・・・!」
ぎりっと手を握り締める。
『ほら、早くワタシを殺さなければ・・・貴様のペットが苦しむことになるぞ?』
その言葉と同時に巨大蜘蛛の身体から出ている白い糸が少し動き――セドナ達を締め付けた。
彼らの苦しそうな呻き声に、こちらが苦しくなるが、どうしようもないのが現実だ。
『安心せい。貴様を喰った後で、このチビ共もデザートとして喰ってやる』
「安心できるかよ・・・・オッサン蜘蛛に喰われるなんざ御免だぜ。せめてキレイな姉ちゃんでも連れて来い」
だが、余裕をかましている暇もない。
どうにかしてセドナ達を助けなければ・・・。
その時、巨大蜘蛛が突然身体を震わせ、次に無数の白い糸を俺に向けて飛ばしてきた。
白い糸は先端が硬化しており、あれに貫かれたら即死は免れたとしても・・・・多分、死ぬだろう。
俺は持ち前の運動神経(和樹には劣るが)を駆使し、何とか白い糸を避けていく。
しかし巨大蜘蛛の攻撃と違ってこちらは体力勝負だ。
放って置いても体力に限界が来れば、貫かれるのは目に見えている。
どうしようか、などと能天気に考えを巡らせていた時。
突然足が何かに絡め取られ、身動きが取れなくなってしまった。
『その子供は余程貴様が気に入ったようだな』
恐る恐る足元を見る。
そこには、
「ッ・・・!?」
異空間に来る前に見た、こちらを覗き見ていた赤ん坊が、俺の足にしがみ付いてこちらを見上げていた。
やがてその顔は不気味に歪み、赤ん坊さながらの声で、俺を嘲笑った。
『貴様を食すときには、その子供にも分け与えてやるとしよう』
硬化した糸が俺目掛けて飛んで来る。
終わった、と俺は死を覚悟した。
相変わらず・・・赤ん坊は足元で笑っていた。